野球をこよなく愛し、負けず嫌い。九州で唯一甲子園で優勝がない本県の高野連トップに就任し、「切磋琢磨でレベルを上げ、壁を打ち破る。野球経験者としてサポートしたい」と頼もしい。
長崎市の端島(通称・軍艦島)出身。大学まで泥だらけで白球を追った。指導者の道に進み、25歳で父の故郷である本県へ。初任地の都城農高で監督を経て、日向高ではバドミントン部の顧問。「とにかく走らせ、やんちゃな子どもも覚悟を持ってついてきてくれた」とインターハイに導いた。その後野球に戻り、青木宣親選手(東京ヤクルトスワローズ)を指導した。
宮崎西高では2012年春、副部長として選抜大会に出場。人文字応援を担当し、「宮西には難しい」という周囲の声で火がついた。配置や配色、立つタイミングなどを一人で練り上げ。出場32校の頂点となる応援団最優秀賞に輝いた。
常に胸に刻むのは野球を通じた人間教育。「辞めた後もまっとうな人生を送ってほしい」と厳しく指導してきた。教え子や保護者と酒を酌み交わし、感謝の言葉が寄せられる度に「自分の信念は間違ってなかった」と実感する。
宮崎市花山手東で暮らす58歳。約25年前に肝臓がんを患った妻亜紀子さんが、昨年5月に死去。家族との時間を犠牲にもしたが「できることに全力で取り組んできた。会長職を喜んでくれているはず」。今は近所に住む初孫との時間が一番の楽しみで、2歳の誕生日にバットとボールをプレゼント。「センスはあると思うよ」と目尻を下げた。