社会人経験を経てアルバイトしながら勉強を続け、49歳で司法試験に合格した苦労人だ。「法的に救える人をきちんと救わないといけない」。弱い立場の人に寄り添うことを大切にする。
門川町出身。延岡西高(現延岡星雲高)時代に水俣病に関する新聞記事を読み「法律を知らない人のために使えるようになりたい」と弁護士を志した。
しかし大学受験浪人中の19歳で父親を、九州大法学部在学中に母親を亡くした。宮崎には当時、2歳年下の妹と幼い弟が2人。弁護士の夢を諦め、卒業後は宮崎市の法律事務所に就職した。
事務所で弁護士の仕事を手伝う日々。「自分でやってみたい」という思いがくすぶり続けた。そんな姿を見ていた妹が結婚し、「弟たちの面倒を見るから挑戦したら」と背中を押してくれた。
一念発起し30歳で退職し、司法試験受験のため京都の大学へ。朝から机に向かい、夜は警備の仕事で生活費を稼いだ。何度も試験に落ち諦めかけたが、宮崎市の西田隆二弁護士の支援や励ましもあり、19回目の挑戦で突破。「いろんな人に心配をかけたけど、すごく喜んでくれた」。当時を振り返り、顔をほころばせる。
本県で弁護士登録し、旧槇峰鉱山の中国人強制連行や建設アスベスト(石綿)訴訟などを担当してきた。県弁護士会会長として「人権に関わる問題をきちんと見ていきたい」と力を込める。
休日にラジオを聞きながら温泉までドライブするのが「一番リラックスする時間」。宮崎市在住、68歳。