メディキット県民文化センターの館長に就き、公益財団法人宮崎県立芸術劇場の理事長も兼ねる。
「県民の皆さんに劇場を身近に感じてもらうためどう取り組めばよいか、一緒に考えたい」と抱負を語る。また例年5月開催の宮崎国際音楽祭が柱であることは変わらないが、「(音楽祭以外に)アピールするものがいる」と“第2の柱”の必要性も感じている。
延岡市で生まれ日南市飫肥、旧東郷町でも過ごした。宮崎市の宮崎南高では生徒会役員を務め「学校を挙げて盛り上がれることを」と、宮崎大宮高へ野球の定期戦開催を申し入れ。当時は実現しなかったが、後年始まり、現在まで続く4校定期戦に発展した。“発案者”は「一度は観戦に行ってみたい」と機会をうかがっている。
東大卒業後に入ったNHKでは報道記者としてさまざまな取材に当たった。思い出深いのは報道局社会部長時に発生した東日本大震災。「取材した記者やディレクターが涙を流しながら映像を編集する姿が印象に残る」
一方で、災害ニュースを1週間ぶっ続けで流したのち、ドラマや音楽番組を再開すると、視聴者から「ほっとした」との声も届いた。「日常は大切。だからこそ文化は大事だと思った」と振り返る。
中学、高校の同級生とは会う機会が増えた。「やっぱり友達はいい」と焼酎を酌み交わす。「肉はもちろんだが、魚も野菜もうまい」と、郷土の食材を絶賛する。
子ども2人は独立。妻を埼玉県の自宅に残し、単身赴任生活が始まった。66歳。