高校野球の経験がなく、就任後すぐに学生野球の理念などを定めた日本学生野球憲章を読み、不安を払拭(ふっしょく)した。「高校野球は学校教育の一環。受験や就職活動などの困難を乗り越える精神力を養う場でもある。選手たちが全力で取り組める環境をつくりたい」と抱負を語る。
県は昨年度から甲子園優勝を目指すプロジェクトを展開。年初の鵬翔高サッカー部の日本一で、「次は野球」と県民の期待は大きい。過去の勤務校で3度の甲子園出場を経験し、学校と地域が一体となった独特の高揚感を味わった。「好成績を残せば、県全体が元気になる」と力を込める。
ただ勝利至上主義への偏りは、いじめや体罰などの問題を生む恐れもある。そのためにも「組織を素人の目で冷静に見つめる立場でありたい」と口元を引き締めた。
宮崎市出身。日向学院高から大分大工学部へ進み、機械科の教員になって約30年。「ものづくりは思いやり」と教え続けてきた。「日本製品はユーザー第一だから長く支持されてきた。その原点をいつまでも忘れないでほしい」。海外勢との競争で劣勢が続く日本のお家芸復活を、教え子たちに期待する。
母方の叔父は、1964(昭和39)年に夏の甲子園で4強入りした宮崎商の三塁手。プロ野球選手になった叔父から贈られたグラブは今でも宝物だ。休日の楽しみは、四半世紀乗り続ける愛車のメンテナンス。「乗るよりもいじってる方が落ち着く」と話す生粋の機械好き。宮崎市吉村町で妻と2人暮らし。57歳。(運動部・坂元穂高)