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大江健三郎さん死去

2023年3月16日
◆時代に向き合い思索深めた◆

 日本人として2人目のノーベル文学賞作家、大江健三郎さんが亡くなった。文学の世界にとどまらず、言論界や平和運動でも影響力が大きかった。喪失感は深い。

 東京大仏文科在学中の1957年、22歳でデビューした。翌58年に「飼育」で芥川賞を受けて以降、最前線を走り続けた。

 高校時代に親交を結んだ映画監督の伊丹十三さんの妹、ゆかりさんと結婚、63年に生まれた長男に障害があったことが文学の主題に昇華する。「個人的な体験」は「鳥(バード)」と呼ばれる予備校教師が主人公。頭部に異常がある子が生まれ、その子の死を願ったバードが、自らの運命を受け入れるまでの魂の遍歴がつづられる。

 もう一つのモチーフは土地の記憶だ。「万延元年のフットボール」は四国の森と谷間の村を舞台に兄弟、夫婦の確執と絆を問う。この村ではかつて一揆があり、首謀者は森を通って逃げたという逸話が残る。主人公と妻は障害のある子どもを見捨てたという罪悪感に苦しむ―。

 まさに「個人的な体験」から出発して普遍に到達した。深い思索、高い倫理観に根ざしつつ、自由な想像力で豊かな物語を紡いだ作家だった。

 ノーベル賞を受けた際の記念講演「あいまいな日本の私」で、大江さんは自分を「破壊への狂信が、国内と周辺諸国の人間の正気を踏みにじった歴史を持つ国の人間」と位置付け「不戦の誓いを日本国の憲法から取り外せば、(略)アジアと広島、長崎の犠牲者たちを裏切ることになる」と述べた。2004年に「九条の会」を結成して活動したのは、その思いが底流にあったからだろう。

 「ヒロシマ・ノート」で被爆者の苦しみを、「沖縄ノート」で沖縄戦での集団自決を刻印し、核や基地の問題について発言し続けた。東日本大震災による原発事故後は脱原発を呼びかけた。時代と向き合い言葉で格闘した。一方で、若い作家を顕彰する賞をつくって励ました。行動し、連帯する人だった。

 繰り返し語った話がある。知的障害のある息子は幼いとき、野鳥の歌だけに反応し、人の言葉には無反応。だが6歳の夏、クイナが鳴く声を聞き「クイナ、です」と言う。やがて会話を始め、後に作曲をするようになる。息子の曲に「泣き叫ぶ暗い魂の声」を聞き取りつつ、それが彼自身の悲しみを癒やしているとみた。そして「芸術の不思議な治癒力」を信じた。

 暴力を凝視しつつ、希望を語った。源泉にあったのは、人間や市民社会への信頼ではなかったか。私たちは大江さんを失ったが、作品の核にある志を引き継がなければならない。

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