七丁椅子
スポットライトが当たる舞台に、鍛え上げられた肉体のパフォーマーが現れ、白い椅子を積み上げる。
3段、4段、5段…。パフォーマーは最上段に立ち、倒立などを次々と披露。伝統芸「七丁椅子」だ。
最後の1脚を重ねると高さは約10メートルにも達するという。不安定さを増した“塔”の重心を探り、
手を置く位置などを微調整するパフォーマー。そして意を決したように倒立をエイッ。目が離せない瞬間だ。
サーカスの綱渡りを見た歩行障害のある少女が施設に帰って廊下に線を引いて練習し、歩けるようになった。感謝の手紙を受け取り、「サーカスが人生の大きなきっかけになる」と感じた。その醍醐味(だいごみ)が「挑戦する勇気」と言う。
モナコでは、サーカス連盟のトップを務めるステファニー公女が主宰して世界最高のパフォーマーが集まる大会が毎年開かれています。
10年くらい前でしょうか。4回転ジャンプに挑戦した女の子が1回目、2回目失敗して3回目、なんとか成功してほしいと5千人の大観衆がスタンディングオベーションで見守った。彼女の挑戦する勇気に対する拍手です。やはり挑戦する勇気が、物事を動かして感動を与える。そこで観客とパフォーマーが一体になる。これはもうプロフェッショナルの真髄だと思うんです。
情熱をいかに燃やしているかということによって観客が感動する。プロフェッショナルな動きに対して観客が一つになるわけです。
オートバイにしても空中ブランコにしても特に子どもの心を強く揺さぶるものです。そんなファミリーエンターテインメントって世の中にあるようで、あまりない。家族そろって見終わってお家に戻って夕食を食べて「よかったね、よかったね」って、その感動を言葉にしてもらえる。
例えば知人の2歳ぐらいのお子様が、(公演内容を)ものすごく覚えているわけです。家族に「この前のゾウさんがよかったね」とか。子どもを連れて行ったとき、あるいは自分が子ども時代に見に行ったときのことを「心を揺さぶられる、というか夢ですよね」と語ってもらえる。
100年近く前からハンディキャップのある方々をずっとご招待しています。新潟公演の時の話です。歩けない女の子が綱渡りの芸を見て、ひょっとしたら歩けるかもしれないという気持ちで園に戻って先生に伝えた。その廊下に線を引いて練習し、歩けるようになったんです。感謝のお手紙もいただきました。
そのように(観客の人生の)大きなきっかけになるサーカスをさらに磨いていこうという気持ちが非常に大切だなと思います。やっぱり子どもさんにいっぱい見てもらいたいという気持ちなんです。
きのした・ただし 1902(明治35)年の創業以来、120年以上の歴史を持つ木下サーカスの4代目社長。74(昭和49)年、明治大卒業後に入社し、90年社長就任。尊敬する松下幸之助と稲盛和夫の著書を愛読する。剣道3段。岡山市出身。
木下サーカスは度々、困難な経営環境を乗り越えて世界一流のサーカス団に成長する。コロナ禍の最中では誰もいない舞台で衣装を着て団員の技を磨いた。8年ぶりの公演は「驚くほどすべてが良くなっている」と語る。
(3代目社長の)兄が45歳で脳幹出血で倒れ、亡くなりました。40歳くらいの時でした。後を継いだ私は、その時に抱えていた借金10億円を10年間かかって返済した。そういう経験が既にあるわけです。
2020年の2月でしたかね。すべての学校に休校要請が出て、福岡市の公演を途中で終わらざるをえなくなった。早めにテントを下ろして、次の金沢市に行くわけです。
そうしたら、「こんな時期にサーカスをするのか」というメールが本社に来て結局、「これは炎上したら大変だ」と3日間で公演を中止した。行くところがないわけですよ。
その次の東京都立川市では、大きな心で受け入れていただいた。だが、やはりお客さんが来ないわけです。そこで、もう舞台はできないけど、「本番リハをやろう」ということになった。実際に衣装を着て、誰もいないけどやっぱり舞台に出ようと。
支えは松下幸之助さんの「万策尽きたと思うな。自らが断崖絶壁の淵に立て。その時初めて新たなる風は必ず吹く」という言葉でした。良くなると思わなくては良くならない。
コロナ禍でも10億円の損害が出ましたが、今回は2年ほどで返済しました。強力な換気扇を導入し、CO2濃度が外気よりやや高い程度の非常に清潔な空間を保てるようになった。
空調も以前よりも良くなってます。音響照明や演出もオープニングもフィナーレも変わった。新しいポニーのショーも素晴らしいですしね。古典芸も新しい出演者が加わっています。
8年前の宮崎公演より驚くほど(すべてが)良くなっていると自負しています。
大学を卒業後サーカス団に入り、空中ブランコの乗り手となった。しかし3年後、落下事故で原因不明の体調不良に。藁をもつかむ思いで断食道場に3年間通い続けた。一枚一枚紙をはがすように回復した経験が原点になり、サーカスも「一つ一つ良くしていこう」という思いに至った。
高校卒業後、私は明治大学に入学し、体育会剣道部に偶然入るわけです。当時の師範で剣道界のナンバーワンの存在だった
森島健男先生の正義であるとか真っ直ぐであるとか、そういう厳しい教えが私には宝物として残ってます。
剣道部には初心者で入ったんです。みんなもう優秀な人ばかりですから、「お前なんて足手まといだ」と言われたくらいでした。
そこで教えられた言葉が「一日一死」だった。今日一日死ぬんだと思うだけで、もう心が晴れやかになる。
考え方によってどんどん変わっていく。20人の同期の中で4年間部に残って卒業したのは私を含めて4人でした。
逆に団結心も生まれる。それで全日本でベスト3になった。
そういう経験を団員たちに伝えています。自分の心が弱くなる時もあるけど、「だからお互いに助け合わないといけないよ」
という話を何度も何度も言うことによって、どんどん人間が変わっていくんです。
兄(3代目社長・木下光宣さん=1991年死去)が営業部門にいたので次男の私は明大卒業後、芸術本部の空中ブランコを目指して入るわけです。
入団から3年後、26歳の時に演技に失敗して足から落下しました。それが引き金になって3年もの間、原因不明の発熱が続いた。
自分の体が弱くなってしまうと、まさに生きる望みも喜びもない。そんな時期でした。
ただ生きているだけという時に、母は「一枚一枚薄い紙を剥がすように良くなっていくよ」と言っていたけど、(当時の)私は信じていなかった。
ところが、3年間の断食修行を6回やることで母の言うことが「やっぱりそうだったんだな」と思った。
それ以来、「一つ一つ良くしていこう」「少しずつ改善していこう」と考えるようになった。
その改革を進めるには上からじゃなくて、やっぱりアンダースタンド。その人より下の立場、団員一人一人の立場に立たないと理解してもらえない。
そういう基本的な人間性も断食道場で教えてもらった。その経験が原点になっています。
8年ぶりに開催される「木下大サーカス宮崎公演」(宮崎日日新聞社主催)の開幕に先立ち、同サーカスの木下龍太郎常務取締役に見どころや意気込みを聞いた。
きのした・りゅうたろう 1999年、木下大サーカス入社。営業担当として全国各地に足を運び、開催用地の確保や開幕の広報・宣伝活動を担ってきた。 2012年から常務取締役。岡山市出身。48歳。
9月22日に開幕する宮崎日日新聞の創刊85周年記念事業「木下大サーカス宮崎公演」(宮崎市のイオンモール宮崎特設会場)を前に主な演目を紹介し、至高の夢舞台へといざなう。
スポットライトが当たる舞台に、鍛え上げられた肉体のパフォーマーが現れ、白い椅子を積み上げる。
3段、4段、5段…。パフォーマーは最上段に立ち、倒立などを次々と披露。伝統芸「七丁椅子」だ。
最後の1脚を重ねると高さは約10メートルにも達するという。不安定さを増した“塔”の重心を探り、
手を置く位置などを微調整するパフォーマー。そして意を決したように倒立をエイッ。目が離せない瞬間だ。
リズミカルな音楽が会場に流れ、女性のパフォーマーが観客に手拍子を求めた。光り輝く直径約1メートルの輪っかを、
最大で同時に約50本。体全体を巧みに使って自由自在に操るフラフープのショーの始まりだ。
まずは腰で5、6本を回し始める。両手を上げて体をYの字にしたパフォーマーは、両手や胸、腰、膝を波のようにうねらせる。
すると、フラフープは体の各部位に移動して回転。観客の手拍子は拍手へと変わった。
さらには別の団員が輪投げの要領でフラフープをパフォーマーに投げるコンビ芸も。クライマックスでは大量の輪っかが波打ちながら躍動する。まるで生き物のようだ。
6頭のポニーが軽快な足取りで入場してきた。調教師が合図を出すと、観客にあいさつするようにして、
ステージの縁に一斉に前足を乗せた。小型の馬とはいえ、体つきは立派。最前列の観客が、思わず体をのけぞらせるほどの迫力だ。
BGMの曲調が変わると、馬たちは円形のステージ内を勢いよく走り回り、設置されたバーを順番に飛び越え始める。しかし、
中にはジャンプをせずにバーの横を歩いて通過してしまう1頭も。まるで集団に紛れて怠けているようにも見える。
観客席からは笑い声が起き、声援も送られる。「どこまでが仕込まれた芸なのか」と考えさせるのも動物ショーの
醍醐味だろう。
舞台上から伸びる2本のポールの端をつかみ、片手倒立などの技を披露するハンドスタンディング。
強靱な体幹を持つパフォーマーは体重を感じさせない軽やかさで芸を繰り出す。
「究極のバランス芸」と評しても、決して大げさではない。
片腕で体を持ち上げてポーズを決めたと思えば、支える手を一瞬で入れ替えたりする。手を滑らせたりすれば、
落下は免れない。見ているこちら側も思わず力が入る。
演目のハイライトは、ポール上に8個のブロックを積み上げた状態で行うパフォーマンスだ。筋肉の震えが伝わり、
ブロックは細かく揺れる。成功した演者は割れんばかりの歓声を浴びる。
両端に車輪が付属し、プロペラのように回転する巨大な装置の上で、2人のパフォーマーが技を繰り広げる
「空中大車輪」。車輪の最高到達点は地上から約15メートル。命綱を付けない状態で披露される
技の数々に、思わず悲鳴を上げる観客も少なくない。
2人のパフォーマーは直径約2.4メートルの車輪の内側でジャンプをしたり、あえて車輪の外に出て装置の
骨組みの上を歩いたりする。ハラハラさせられるが、まだ序の口。
目隠しをして、ふらつきながら歩いたりもするのだ。
極めつけは縄跳び。縄が足に絡まるたびに目を覆いたくなるが、見事に二重跳びを成功させると、
大きな歓声と惜しみない拍手が送られる。
1960年代の陽気なアメリカンロックが聞こえてきたら、オートバイショーが始まる合図だ。
アフロヘアのダンサーが会場を盛り上げた直後、2台のバイクが大きなエンジン音を響かせながら、
球体状の金網の中へと入っていった。
ドライバーはタイミングを合わせてアクセルをひねり、勢いよく発進。直径約7メートルの球体内を旋回する。
最高時速約50キロまでスピードを上げ、互いに至近距離に接近。バイクのライトが縦横無尽に駆け巡る。
クライマックスでは3台目が加わる。2台のバイクは並走しながら球体内を横回転し、
もう1台は交差するようにして縦回転を始める。まさに決死のパフォーマンスだ。
全長約6メートルの竹製のはしごのてっぺんまで女性のパフォーマーが上り、ポーズを決める
「くだけばしご」。重さ約10キロのはしごを肩に乗せて支えるのは、屈強な体つきをした男性団員だ。
2人の息が合わなければ成功しない伝統芸である。
女性は足場に足をかけて逆さづりになるなどの曲芸を披露。演技中、はしごはバラバラに分解して
1本の竹の棒になるが、自慢の平衡感覚で“ピンチ”を脱出する。ポーズを決めて客席を沸かせる。
男性はもう一人の主役。はしごは女性が動くたびにぐらつくが、前後左右に移動しながら
絶妙なバランスを保つ。この演目は、公演日が限られる「交代芸」となっている。
ワイヤでつるされた長さ約3メートルのポールにつかまった男女が演技を披露し、美しくもはかない物語を醸し出す。
「アルバトロス」と名付けられた空中ショーである。
女性が宙ぶらりんになったポールを使って優美なダンスを繰り広げる。そこに男性が加わり、表現はダイナミックになっていく。
こいのぼりのように腕のみでポールをつかんだと思えば、逆さまでポーズを決めたり。
2人がいる空間には重力はあるのかと疑いたくなるほどだ。
女性の足首から垂れ下がったベルトに男性が首をかけ、高速回転する離れ業も。2人が織りなす幻想的なドラマが広がっていく。
この演目は公演日が限られる「交代芸」となっている。
玉乗りで会場を盛り上げる女性パフォーマー。見入っていると、ステージの裏手から
「ズシン、ズシン」と巨大な2頭が入場してきた。ラオスからやってきた象さんのショーが始まった。
象さんはステージを一周。「サバイディー(こんにちは)」というラオスの言葉による
アナウンスに合わせて器用に前足を畳み、あいさつするように頭を下げる。
続いて、ステージ中央に置かれた直径1メートルほどの土台に大きな前足を乗せる。さらに後ろ足も。
そのまま前足を上げて静止すると、客席は拍手喝采。象さんの愛嬌と
高難易度の芸の数々に、気が付けば会場中が魅了されている。
ステージにそびえ立つ地上13メートルの高台から、ブランコをつかんだ飛び手たちが勢いを付けて空中へと飛び出す。途中で手を離し、別のブランコに足をかけて待ち構えていた受け手の腕をつかみ、見事に“合体”。その華麗な技に、テントの中がひときわ大きな歓声に包まれる。サーカスの花形と称される「空中ブランコ」=写真=が、夢舞台のフィナーレを飾る。
途中で加わるピエロにも注目。愉快なジャンプで会場を和ませる。飛び手たちは天井からつるされた障子紙に飛び込んだり、目隠しをしてパフォーマンスしたりと、大技を次々に披露。まばたき厳禁。緊張の一瞬を見届けてほしい。
世界三大サーカスの一つに挙げられる木下大サーカス。曲芸が繰り広げられる舞台には、本県出身者を含め、さまざまな思いや背景を持った パフォーマーらが出演し、観客に夢を与えている。宮崎日日新聞の創刊85周年記念事業「木下大サーカス宮崎公演」(9月22日~12月9日、 宮崎市のイオンモール宮崎特設会場)に先立ち、夢舞台の主役たちを紹介する。
木下大サーカスで和太鼓のパフォーマーとして活躍する藤田智充さん(20)=都城市出身=は、同市の五十市中3年の時に初めて見た
木下大サーカスの公演で、自由自在に体を動かす団員たちの姿に胸を打たれた。幼少期から腎臓に持病を抱え、運動とは無縁の生活を送っていたが、
「自分とは真逆の世界が輝いて見えた。あの舞台に関わりたいと本気で思った」。入団を希望する手紙を半年に1度、同サーカスの運営会社や社長に送り続けた。
中学生時代は当初、看護師を目指していたが、サーカスの裏方として活躍できるよう、電気科がある都城市の都城高に進学先を変更した。在学中は、電気工事士や
ガス溶接、危険物取り扱いなどの資格も数多く取得。ピエロ枠での入団も見据え、吹奏楽部の練習にも打ち込んだ。
高校3年生の時、木下唯志社長にその情熱を買われパフォーマー枠で合格。「家族や先生、友人も一緒になって喜んでくれた。夢のようだった」
2022年の入団後は、接客や駐車場の整理など舞台以外の仕事を必死に覚え、空き時間は体づくりのトレーニングに費やす日々が続いた。
「体力や精神的に疲労がたまり、正直何度も『やめたい』と思った」と当時の心境を明かす。
それでも共同で生活する先輩たちから「もう少しだけ頑張ろう」と何度も背中を押してもらった。日々の業務の傍ら、毎日のランニング、
週3日の筋トレを継続。12キロ減量し、入団テストでは3回しかできなかった懸垂も20回近くできるようになった。
現在は和太鼓奏者としての出演のみだが、3カ月後に始まる宮崎公演での初披露を目指し、曲芸で魅了する跳び箱ショー「スーパーキャッチ」の練習に励む。
高校時代の様子を母かおりさん(51)=都城市=は「夢に向かって努力を続ける背中を見守り続けた」と振り返り、「大きなけがには気を付けて、熱量を高く保ち、
どんどん挑戦してほしい」とエールを送る。
藤田さんは「古里で応援を続けてくれた人たちへの恩返しになれば」と思いをはせ、「中学時代に見た先輩方のように、夢と勇気を与えるパフォーマーになりたい」と真っすぐな目で語った。
前回の宮崎公演があった2016年に入団し、木下大サーカスの中核を担う存在にまで成長した。
人気演目・空中ブランコのフライヤー(飛び手)として活躍する早田神龍さん(26)=小林市出身=は
「再び古里でパフォーマンスを披露できるとは。本当にうれしい」と喜びを語る。
中学から新体操を始め、強豪として知られる同市の小林秀峰高に進学。全国大会でも活躍した。進路選択に悩んでいた折、
担任教師から求人票を見せてもらったのがきっかけで、サーカスの世界に飛び込んだ。
当初はオープニングでアクロバット技などを披露。約2年間の訓練を経て、空中ブランコでデビューした。しかし、
高い場所が苦手だったためか、約3年前に自律神経失調症を発症。めまいがして、記憶が飛ぶこともあったという。
空中ブランコの出演を一時見合わせざるを得なくなった。
それでも、低い位置での練習など、一からの努力を重ね、ようやくフライヤーとして返り咲いた。入団9年目の今、
後輩に指導する立ち場になったことを自覚する。「一緒に成長して、世界一のサーカスを目指したい」と強い覚悟をにじませる。
回転する二つの大車輪の中や外で演技する「空中大車輪」。命綱はなく、その危険性から10年足らずで引退するパフォーマーが
多いという演目で、ポポフ・コスタディンさん(44)=ブルガリア出身=は21年間にわたり、華麗な技を披露してきた。
「何歳になっても観客を楽しませ続ける」と意欲を燃やす。
5歳から13年間、器械体操で体の使い方を学んだ。体育教師として子どもたちに体操を教えていたが、22歳の時に
ドイツのサーカス団に誘われ、程なく空中大車輪のパフォーマーに。2014年、木下大サーカスに加わった。
地上からの車輪の高さは最大で15メートル。命懸けの演目を自分のものにするため、駆け出しの頃は、
1日7時間の練習を重ねたという。今では、勢いよく回る車輪の上で、目隠ししながら歩くなどの大技を軽やかにこなす。
「パフォーマンス中は恐怖心を忘れないこと」がモットーだ。
妻のポポバ・タチアナさん(34)も同サーカスの団員。7歳と2歳の子供には「後を継いでほしくない」と親心も見せる
コスタディンさんは「本気で挑戦をしたいと言うなら、全力で背中を押すよ」と言った。
細い鉄パイプ上に積んだブロックをつかんで逆立ちを成功させると、テントの中は大歓声に包まれる。
木下大サーカスに2019年に入団したアンドレ・スタイカンさん(28)=フランス出身=は、バランス芸「ハンドスタンディング」のパフォーマー。
秀でた平衡感覚と肉体美で観客の目を引きつけている。
同国の歴史あるサーカス団の9代目として生まれ、幼い頃からジャグリングや空中ブランコなどの練習に明け暮れた。
特に才能が光ったのがバランス芸。5歳にして、父親の両手の上で倒立する「ハンド・トゥ・ハンド」でデビューした。
片手のみで、自らの体を軽々と持ち上げる技もお手の物。高度な技術や感覚を最善の状態にするため、ショーのない期間も1日4時間、
本番と同じパフォーマンスをしたり、苦手な部分の反復練習に充てたりしているという。「体重が1~2キロ違うだけでも演技に
大きく影響する」といい、肉体管理にも余念がない。
「お客さんが満足して帰る姿を見るために、技に磨きをかけ続ける」。プロ意識の塊のような男は、
古里から応援してくれる両親が日本のサーカスを見に訪れる日を心待ちにしている。
軽快な音楽に合わせ、6頭の小型の馬が演技する「ポニーのショー」。調教師のマイケル・ハウズさん(54)=英国出身=は、
走り回るポニーたちに、釣りざおのような道具を巧みに使って、ジャンプや整列の合図を出す。
「動物と根気強く心を通わせて、家族のような信頼関係を築くことが大切」と調教の奥深さを語る。
調教師一家の3代目として生まれ、19歳でサーカスの世界に飛び込んだ。ライオンなど数々の猛獣にも芸を仕込んだが、
ポニーの調教は一筋縄にはいかなかった。多くの動物はおやつを与えることで上達していくが、
ポニーはどれだけ懐いてもらえるかが鍵。毎日の食事や毛繕い、爪切りなどの世話を繰り返し、信頼関係を構築した。
ショーを完成させるまでに約2年を要した。反復練習を地道に続け、成功体験を積ませることが大切で、例えば台に飛び乗る動作を
覚えさせるために、最初は薄い板の上に前足を乗せてもらい、少しずつ高さを上げていったという。
舞台では、常に自分と動物が心に余裕を持つことを心掛けている。「家族同然の仲間と一緒に、笑顔と感動を届けたい」と言った。
直径約2メートルの台の上で、3人のパフォーマーが回転技を見せるローラースケートのショー。マイケル・ハウズ・ジュニアさん(24)は、
木下大サーカスに2年前から加わったショーの発案者であり演者だ。強い遠心力で体が飛ばされるリスクもある、命懸けの演目だが
「挑戦しなかったらその時点で失敗。挑戦をやめるな」という父の教えを胸に、舞台に立っている。
父で「ポニーのショー」の調教師マイケル・ハウズさん(54)=英国出身=と中学生の時に来日した。17歳で入団し、古典芸の竹渡りや
坂綱を担当してきた。元々は観客だった妻の樹さん(27)と結婚したのを機に「2人で出演できるパフォーマンスを」と、
ローラースケートショーの開発に乗り出した。
弟のアーロンさん(20)も練習に加わり、3年がかりで演目が完成した。ショーでは、弟と2人で妻を抱えながら高速回転したりする場面もあり
「呼吸が合わないと実現できない危険な技だ」と緊張感をにじませる。それでも、父の言葉や観客の喜ぶ顔を心の支えにして、何回失敗しても
挑戦する姿勢を持ち続ける。そして、夢は世界の人々に芸を披露することだという。
華やかな木下大サーカスの舞台では、多くの女性も活躍している。大阪市出身のパフォーマー今村有里さん(30)も
その一人。長い竹の上で曲芸を披露する伝統の「くだけばしご」や空中ブランコなど6演目に出演し、観客から大きな拍手と歓声を浴び続けている。
幼稚園教諭を目指していた短大生時代、人生で初めて見たサーカス公演に心が動いた。「サーカス団員を目指す」と両親に伝えると猛反対された。
それでも、必死に熱意を伝えると、すぐに応援してくれるようになり「今では両親が一番のファン」と笑顔を見せる。
中学、高校生時代に器械体操、短大生時代はチアリーディング部に所属。入団後は、培った柔軟性や空中感覚を遺憾なく発揮し、
数々の演目をマスターしていった。精神的につらい時期もあったが、先輩団員が背中を押してくれた。
入団11年目の今も、パフォーマンスを安定させるために週3日、懸垂やロープ上りなどのトレーニングに励む。
8年ぶりに開催される宮崎公演に向け、「1人でも多くの人に夢と希望を与えられたら」と力を込めた。