挿絵画家・永井郁子氏(画像提供:あかね書房)
1987年の第1巻創刊から4年間、全10作を世に送り出し、30年以上経った今も読み継がれている人気ロングセラー「わかったさんのおかしシリーズ」。その後継シリーズの最新刊として『わかったさんのスイートポテト』(あかね書房)が今年9月、33年ぶりに刊行された。新刊発売を発表した際の公式Xアカウントには1万1000件を超える“いいね”が寄せられ、発売後には「わかったさんにまた会える」「挿絵もそのままでエモい」などファンの喜びの声が殺到。原案の故・寺村輝夫氏の世界観と想いを受け継ぎ、本作を世に送り出した画家の永井郁子氏と編集担当の木内麻紀子氏に、誕生秘話や本シリーズが愛され続ける理由を聞いた。
【画像】最新刊『わかったさんのスイートポテト』挿絵を公開、33年前と変わらない「わかったさんに、また会えた!」
■”ストーリー”と”可愛い絵”の両軸が揃う『わかったさん』 、当初は「読み物となる文章を書く自信がない」葛藤も
「わかった、わかった」が口癖のクリーニング屋さんが、配達中に不思議な世界に迷い込み、お菓子を作るというファンタジー童話「わかったさんのおかしシリーズ」。第1巻が発売されたのは、今から37年前の1987年。『わかったさんのクッキー』から始まり、シュークリーム、ドーナツ、アップルパイ、プリン、マドレーヌなど1991年まで全10巻を刊行。巻末にはお菓子の作り方が付いていることから、愉快なお話とおいしいお菓子作りが一冊で楽しめる児童書として、シリーズ累計450万部を超えるロングセラーシリーズに育ち、今なお人気を誇っている。
その最新作『わかったさんのスイートポテト』が33年ぶりに刊行されたのは、原案の故・寺村輝夫氏と長年タッグを組んで本シリーズの挿絵を手がけてきた永井郁子氏のこんな思いがきっかけだった。
「2006年に寺村先生が亡くなられた後、『王さまシリーズ』(理論社)など先生の作品の挿絵を描かれていた和歌山静子先輩が寺村先生の短編作品を絵本化して、出版されました。それを見て、先生が亡くなられて寂しい思いを抱えていた私は、自分もこんなふうに先生の本が作りたいと思ったんです」(永井氏)
そこで永井氏は、「わかったさんのおかしシリーズ(以下、わかったさん)」の世界をベースに赤ちゃん用の絵本を作ろうと発案。あかね書房に企画を持ち込んだのだが、決定にはいたらなかった。
「赤ちゃん向けということで、文字を少なく大きくして、キャラクターも線が太い感じに変えるなど工夫をしました。しかし、『わかったさん』の良さはストーリーの楽しさにあるから絵が可愛いだけでは難しいと判断されたんです」(永井氏)
永井氏は、「それなら、もう少し年齢が上の子どもたち向けの絵本にしてみよう」と、企画を練り直し、再度、あかね書房へ。担当編集者の木内麻紀子氏に、「とてもいいから、思い切って物語のボリュームを増やして、読み物にしませんか」とアドバイスを受け、本作の制作がスタートした。
ただ、「嬉しいチャンスをいただけた!」と喜びつつも、「寺村先生の後に続くような文章なんて自分には書けない」と躊躇する気持ちも大きかったという永井氏。そんな葛藤を一歩踏み出す勇気に変えたのは、「わかったさん」を愛してきたファンの声だった。
■かつての子どもたちから熱狂的な反響、SNSで何十万と広がる様子に「本当に驚きました」
2017年、あかね書房は、「わかったさん」の誕生30周年を記念して、シリーズの名シーンやお菓子の作り方に加え、新しいレシピも載せたイラストブック「わかったさんとおかしをつくろう」全3巻を発行。それに伴い公式アカウントを立ち上げたところ、瞬時にフォロワー数が2万を達成。その後、2023年に「わかったさん」の世界をモチーフにしたキーホルダーや一筆箋、アクリルスタンドなどオリジナルグッズの制作についてオファーが入り、販売が開始されると、こちらも大盛況だった。記念に行われた永井氏のサイン会は、100名分の電話予約が30分で埋まるほどの人気ぶりで、当日には感動のあまり涙ぐむファンの姿もあったという。
「『今でも仕事で辛いときに読んで癒される』とか、『「わかったさん」をきっかけにパティシエになりました』など、ファンの方からのお声に、改めて長年愛されてきた作品の持つ底力を感じました。寺村先生は本当に素晴らしいものを残されたと実感しています。そのシリーズをご一緒させてもらえたことで、先生の言い回しや空気感が体に染みついている私だからこそ、頑張ってみようと思えました」(永井氏)
「永井氏だからこそ」はあかね書房の望むところでもあった。むしろ「永井さんが書くのでなければ新作は実現しなかった」と木内氏。そこには「わかったさん」を大事にするからこその理由があった。
「これまで『わかったさん』はドラマ化やアニメ化の声も多数いただいてきました。でも、10巻しか出ていないため、ドラマやアニメにするためには、その先の話を新たに脚本家やアニメーターが作らなければなりません。それはあり得ないというのが弊社の判断だったので、ご依頼はすべてお断りしてきました。逆に言えば、新しいシリーズの文章を書けるのは長年、寺村先生と『わかったさん』を作り上げてきた永井さんしかいません。永井さんが企画を持ち込んでくださったからこそ実現できたことでした」(木内氏)
こうして33年ぶりに登場した「わかったさん」の新作に、子ども時代に「わかったさん」に魅せられた往年のファンたちは歓喜。ポーズモデルを務めていたころの思い出をポストした永井氏の姪のSNSまでバズったほどだったという。
「かつての子どもたちが『待ってました!』と熱狂的に喜んでくれている様子は、まるで夢を見ているようです。何より嬉しかったのは、『寺村輝夫をちゃんと受け継いでいる』『世界観が同じ』と言ってもらえたことでした。それを一番意識してきましたから、涙が出るほど幸せでした」(永井氏)
30年以上前と比べ、SNS時代の今だからこその反響の大きさにも感動したという。
「かつては、本に付いているアンケートはがきやファンレターで感想をいただいていたのですが、当時は10通とか20通とか、よくても100通いかないくらいでした。それがインターネット時代の今、いただける感想はいきなり何万何十万ですからね。本当に驚いています」(永井氏)
■読む側がイメージする”余白”の重要性「本来の読書の醍醐味を味わうことができる」
では、「わかったさん」はなぜ、こんなにも愛されてきたのか。
「寺村先生が一番おっしゃっていたのは『僕の童話は、道徳的なことや教育的なことを目的にしていない。ただ、おもしろければいいんだ』ということでした。とにかくエンターテインメントを大事にしていらした。その想いで作り上げた、どこの世界にどう飛んでいくかわからない、子どもたちの想像力を泳がせて遊ばせてくれる自由さが一番の魅力ではないかと思います」(永井氏)
木内氏は編集者の視点から、「わかったさん」誕生当時の状況を踏まえ、その魅力をこう分析する。
「あのころは、物語だけでなく出てくるお菓子のレシピも付いているという“物語+実用”といった児童書は他に類がありませんでした。そこに子どもたちは魅せられたのだと思います。今回、新刊のサイン会に、お母さんとなったかつてのファンが子どもさんを連れて大勢来てくれたのですが、驚いたのは、親子が同じ熱量でいらっしゃることでした。子どものつきそいではなく、お母さんも子ども時代と同じ気持ちでワクワクしてくださっている。これは新刊を出さなければ見られなかった風景だととても感銘を受けました」
さらに木内氏は、昔の児童書と今の児童書の違いを踏まえ、「わかったさん」のもうひとつの魅力も明かしてくれた。
「昨今は、スマートフォンやタブレットの普及によって、子どもたちが動画や絵本をデジタル機器で目にする機会が格段に増えています。それに伴い、最近は紙の本であっても、できるだけ展開が早いとか、パッと見て理解しやすいような、即物的で、派手で、分かりやすいものが増え、流行する傾向にあります」
一方で、「わかったさん」のようなロングセラーの本には、「読む側が自分で考えたりイメージしたりしなければいけない余白がある」のだという。
「実はこういう本を読むのは面倒くさいかもしれないし、読むためのコツも必要なのですが、子どもたちはさまざまなタイプの文章を読むことで、そのコツを楽しく得ていきます。デジタル社会の今だからこそ、文章を読みこなす力はすごく大事だと思うし、『わかったさん』では、時代に左右されない本来の読書の醍醐味を味わうことができる。その意味で読書の楽しみを知るきっかけになると、胸を張って言えるシリーズです」
『わかったさんのスイートポテト』を第1弾としてスタートした、「わかったさんのあたらしいおかしシリーズ」。来夏には2巻目を発行予定で、現在、永井氏は鋭意制作中という。今後、どんなお話とレシピで新しいファンを増やし魅了させてくれるのか、往年のファンとともに期待したい。
(取材・文/河上いつ子)
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