宮崎市の明道館で子どもたちと精力的に稽古に励む歌津清文さん
「稽古が好きなんです。特に苦しいのが」
子どもたちの元気な声や、畳に体を打ちつける音が響きわたる宮崎市淀川の柔道場「明道館」。「いいぞ」「体の間に膝を入れて」。道場の教師を務める7段の歌津清文さん(67)=宮崎市佐土原町=は、組みながら丁寧に寝技を教える。その動きは、全盲とは思えないほどスムーズだ。
8歳で光を失った。不安や絶望感にさいなまれたことは何度もある。1996年アトランタ・パラリンピックにも出場した歌津さんにとって、柔道が心の支えだった。
延岡市出身。小学2年の夏、先天性の緑内障が進行し、失明した。「とにかく、何をするにでも人の世話にならないといけないのがつらかった」
中学生くらいから抱いてきた、心のもやもやを晴らしてくれたのが柔道だった。東京教育大(現・筑波大)付属盲学校を卒業し、同校のマッサージやはり、きゅうの職業課程・理療科に進んだ19歳のころ、知人のつてもあり柔道の総本山・講道館に通い始めた。
道場の壁に沿って歩きながら、乱取りの相手を近くの人に頼み込んだ。汗びっしょりになるまで体を動かすと、気持ちがすっきりした。ランニングや筋力トレーニングなども行い、千葉県立盲学校の教諭となってからも電車で片道約2時間かけて通った。寝技を中心に力を付け昇段を重ねた。
89年に帰県し、県立盲学校(現・明星視覚支援学校)で鍼灸(しんきゅう)・マッサージ師を目指す生徒たちを教えた。柔道は明道館で続けながら、部活動の顧問も務めた。
目が見えないことで、教え子が「かつあげ」に遭ったり、因縁をつけられたりした話を聞いた。自分も何度も経験してきた理不尽な仕打ち。「そういうことを少しでも避けられるような強さというか、自信を付けてほしい」との思いで、共に汗を流した。
アトランタ・パラリンピック男子78キロ級に出場したのは43歳。前年の95年にあった全日本視覚障害者大会で優勝し、大舞台への切符を手にした。
初戦の準々決勝は突破したが、臀部(でんぶ)を肉離れ。準決勝と敗者復活戦で敗れ、5位で大会を終えた。「国の代表としてメダルを取れなかったことは申し訳なかった」と振り返るが「自分にとっては、パラに出たことはそこまで重要ではない」という。
勝ち負けよりも、いかに満足いく試合ができたか-。32歳のときの昇段試験での試合が今でも印象に残っている。目の見えない自分に対し、それまでは組み手を握らせてくれることが多かった。だがこのときは、組ませずにいきなり大外刈りで畳にたたきつけられた。
涙が出るほど悔しかったが、別の感情もわき上がった。「俺に負けるわけにはいかないと、本気できた」。障害者ではなく一選手として“対等に”見られたんだと実感した。数カ月後、同じ相手と対戦したときは、その技をしのぎ切った。
2年前に退職。現在も白杖(はくじょう)を持ち1人でバスに乗って道場に通う。街を歩いていたある日、女性から「知り合いですか」と声を掛けられた。何のことか尋ねると、小学生の女の子が心配そうに後ろをついてきていると言われた。
はっとした。「自分に分からないよう親切にしてくれる人たちも、たくさんいることにあらためて気付いたんです」。境遇に絶望し、助けてもらうことにも負い目を感じた時期もあったが、近年は周りへの感謝の思いが強くなった。
そんな姿が、道場の人たちを引き付ける。明道館で指導を受ける大宮中3年、鳥居大将さんは「技のスピードやタイミング、どれもすごいけど、誰に対しても優しく礼儀正しいところなど、人として尊敬できる」。見原道生館長も「一言で言えば『人格者』。子どもたちも歌津先生の手を自然に引くなど、思いやる姿が見られる」と語る。
「稽古が好きなんです。特に苦しいのが」と笑顔で話す歌津さん。自宅でのトレーニングも欠かさず、ベンチプレスは120キロ。講道館で開かれる高段者大会にも出場する。「柔道を通じて自分の『師』や、多くの人に出会えた。これからも続けたい」と、生涯現役を貫くつもりだ。