(1)衝撃
2011年4月3日
■どう復興させるのか… 見渡す限りがれきの山「まるで地獄」
全長約50メートル、総重量400トンの巨大なマグロはえ縄船が陸に打ち上げられた異様な光景は、まるで「合成写真」を見るようだった。鉄筋コンクリート造り以外の全ての建物が津波に押し流され、見渡す限りがれきの山。宮城県気仙沼市の水産関係者と40年来の付き合いを続ける外浦漁協(日南市南郷町)のカツオ船主組合長河野賢二さん(73)=同町潟上=は3月下旬に被災地を訪れ、目を疑った。「地獄のようだった。一体、これをどうやって復興させるのか」
3月11日の震災当日、河野さんは被災地に電話をかけ続け、夜になって回船問屋の従業員と連絡がついた。携帯電話の向こうで、従業員は3階建ての気仙沼漁協の屋上に避難しており「100人くらいで救助を待ってる。向かいの町は火の海だ」と叫ぶように話していた。数日後には多くの友人の無事を確認できたが、中には家族を亡くした人もいた。「家も流され、妻の葬式は1年後になるかもしれない」。なじみのえさ問屋は、電話口で力なくつぶやいた。
「早く仲間の顔を見たい」。居ても立ってもおられず、河野さんは同漁協の代表として気仙沼を訪れた。震災の爪痕が生々しく胸が痛んだが、「こまっちゃん」と呼んでいる回船問屋部長の小松義一さん(60)との再会はうれしかった。4人の子どもの結婚式や、急逝した孫の葬式にも参列してくれた「40年来の親友」だ。電話口では気丈に振る舞っていたこまっちゃんだが、顔を合わせた瞬間、せきを切ったように男泣きした。こまっちゃんの心の中は分からなかったが、河野さんも泣いた。「行く前から分かってはいたが、何の力にもなれなかった」。被災地での滞在時間は、わずか4時間だった。
外浦漁協所属「安誠丸」の船頭橋本喜代春さん(59)=同町中村乙=は、町全体が炎に包まれた気仙沼のニュース映像を見た。カツオ一本釣り漁の拠点として長年世話になってきた町。ぼうぜんとし、自然と涙がこぼれた。すぐに受話器を手に取ったが、被災地の友人の安否が確認できたのは10日後。3人が自宅を失い避難所で生活していたが、無事を知り胸をなで下ろした。
震災後、日南市の漁師たちは橋本さんのように知人へ電話をかけ続けた。しかし、すぐにつながった人は少なく、情報の断片だけが徐々に集まった。運よく無事を確認できたこともあったが、「食堂がなくなり、お母さん(店主)が亡くなった」「○○さんの嫁が津波に流された」と、胸を締め付けられるような話も多かった。
旧南郷町を含む日南市の近海カツオ一本釣り漁の漁師たちが、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた気仙沼市を特別な感情で見守っている。漁船が大型化した40年ほど前から、1年の半分を気仙沼に拠点を移してカツオを追ってきた。現在、気仙沼に赴く日南市内の漁船は26隻、漁師約400人。現地には友人や家族、仕事上の知人が多く、深刻な被害からの復興を願ってやまない。
【写真】津波により陸上に打ち上げられた巨大なマグロはえ縄船。震災がもたらした異様な光景は「合成写真」を見るようだ=3月24日、宮城県気仙沼市(外浦漁協提供)
全長約50メートル、総重量400トンの巨大なマグロはえ縄船が陸に打ち上げられた異様な光景は、まるで「合成写真」を見るようだった。鉄筋コンクリート造り以外の全ての建物が津波に押し流され、見渡す限りがれきの山。宮城県気仙沼市の水産関係者と40年来の付き合いを続ける外浦漁協(日南市南郷町)のカツオ船主組合長河野賢二さん(73)=同町潟上=は3月下旬に被災地を訪れ、目を疑った。「地獄のようだった。一体、これをどうやって復興させるのか」
3月11日の震災当日、河野さんは被災地に電話をかけ続け、夜になって回船問屋の従業員と連絡がついた。携帯電話の向こうで、従業員は3階建ての気仙沼漁協の屋上に避難しており「100人くらいで救助を待ってる。向かいの町は火の海だ」と叫ぶように話していた。数日後には多くの友人の無事を確認できたが、中には家族を亡くした人もいた。「家も流され、妻の葬式は1年後になるかもしれない」。なじみのえさ問屋は、電話口で力なくつぶやいた。
「早く仲間の顔を見たい」。居ても立ってもおられず、河野さんは同漁協の代表として気仙沼を訪れた。震災の爪痕が生々しく胸が痛んだが、「こまっちゃん」と呼んでいる回船問屋部長の小松義一さん(60)との再会はうれしかった。4人の子どもの結婚式や、急逝した孫の葬式にも参列してくれた「40年来の親友」だ。電話口では気丈に振る舞っていたこまっちゃんだが、顔を合わせた瞬間、せきを切ったように男泣きした。こまっちゃんの心の中は分からなかったが、河野さんも泣いた。「行く前から分かってはいたが、何の力にもなれなかった」。被災地での滞在時間は、わずか4時間だった。
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外浦漁協所属「安誠丸」の船頭橋本喜代春さん(59)=同町中村乙=は、町全体が炎に包まれた気仙沼のニュース映像を見た。カツオ一本釣り漁の拠点として長年世話になってきた町。ぼうぜんとし、自然と涙がこぼれた。すぐに受話器を手に取ったが、被災地の友人の安否が確認できたのは10日後。3人が自宅を失い避難所で生活していたが、無事を知り胸をなで下ろした。
震災後、日南市の漁師たちは橋本さんのように知人へ電話をかけ続けた。しかし、すぐにつながった人は少なく、情報の断片だけが徐々に集まった。運よく無事を確認できたこともあったが、「食堂がなくなり、お母さん(店主)が亡くなった」「○○さんの嫁が津波に流された」と、胸を締め付けられるような話も多かった。
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旧南郷町を含む日南市の近海カツオ一本釣り漁の漁師たちが、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた気仙沼市を特別な感情で見守っている。漁船が大型化した40年ほど前から、1年の半分を気仙沼に拠点を移してカツオを追ってきた。現在、気仙沼に赴く日南市内の漁船は26隻、漁師約400人。現地には友人や家族、仕事上の知人が多く、深刻な被害からの復興を願ってやまない。
【写真】津波により陸上に打ち上げられた巨大なマグロはえ縄船。震災がもたらした異様な光景は「合成写真」を見るようだ=3月24日、宮城県気仙沼市(外浦漁協提供)
(1)衝 撃 | 2011年4月3日付 |
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