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みやざきマンゴー物語(中)

2017年5月8日

「宮崎はひとつ」 栽培技術向上


 「大きな実に限って落ちて売り物にならない」。マンゴー栽培が始まって間もないある日、JA西都果樹係長の楯彰一さんは、生産者から相談を受けた。完熟して落ちた実を食べてみると、とびきり甘くジューシーだった。

自然落果をキャッチ ネット収穫方式転機に

完熟して落下する実をキャッチする収穫法で、高品質のマンゴー出荷が可能に。最高級品は「太陽のタマゴ」の愛称で全国に流通する

完熟して落下する実をキャッチする収穫法で、高品質のマンゴー出荷が可能に。最高級品は「太陽のタマゴ」の愛称で全国に流通する

 当時は8~9割に熟したものをハサミで収穫。楯さんはクリなどを入れるネットを果実にかけ、完熟して落下する実をキャッチすることを考案。しかし、試してみると果皮に網目の跡が残ったり、日光の当たり具合では日焼けしたりすることが分かった。改良を重ねること3~4年。膨大な時間と開発費もかかったが、ついに専用ネットが完成。県産マンゴー最大の魅力、こだわりの完熟収穫が可能となった。

 さらに試練が続く。果皮に黒斑が入る炭そ病や裂果などに悩まされ、台風13号(93年)では枝が折れる被害に見舞われた。生産者の負債もかさみ、「やめたい」と言い出す人も。その度に最初に出会ったマンゴーの味と感動を思い返し、皆で励まし合い、一つずつ問題を乗り越えた。

 視察も相次いだ。完熟マンゴーを県の特産品にする夢を抱いた西都市の生産者は、導入を図る宮崎市や串間市、日南市などから訪れた農家に、苦労して培った栽培技術を余すことなく伝授した。


「太陽のタマゴ」誕生 全国区のブランドに

 89年、県がフルーツランド構想を策定。産地はJA宮崎中央、こばやし、はまゆうへと拡大し、その間も生産者たちは高品質のマンゴー栽培を追求。93年には「宮崎はひとつ」を合言葉に、県果樹振興協議会亜熱帯果樹部会が設立。栽培技術向上のための研修会や販売戦略など「みやざき完熟マンゴー」のブランド産地化を目指した。楯さんは「多くの人が携わって花開き、生産者の努力とJAとの連携があってこそ成立した」と強調する。

 98年には、糖度15度以上、一玉350㌘以上などの独自基準をクリアした最高級品「太陽のタマゴ」が誕生、ブランドの付加価値をさらに高めた。
しかし好事魔多し、部会はまたも試練に直面する。

ハウスも自宅も被災 県下から支援の輪

三財川の堤防が決壊し、西都市のマンゴー生産農家32戸のうち、約8割でビニールハウスが冠水、全壊した=2005年9月13日、西都市鹿野田地区

三財川の堤防が決壊し、西都市のマンゴー生産農家32戸のうち、約8割でビニールハウスが冠水、全壊した=2005年9月13日、西都市鹿野田地区

 2005年9月6日、本県を台風14号が直撃。未曾有の豪雨で西都市の三財川の堤防は5カ所以上が決壊。濁流は流域の田畑やハウスを一気にのみ込んだ。鹿野田地区の生産者の自宅も浸水し、2千万円を投じた三角ハウスの鉄骨はぐにゃりと曲がり、土砂が堆積。一面湖と化した。中には脱サラして栽培を始めたばかりの人もいた。

 被害を免れた部会の仲間たちは応援を呼び掛けた。管内の生産者、JA職員を中心に、県内各地の生産者、JA、JA青年部、経済連、県や市の職員が駆け付け、1カ月半、泥や重油まみれになったマンゴーの葉を一枚一枚、丁寧に洗っていった。「ありがたかった」「災害に負けるものか」。一人も離農することなく、再興に懸けた。皆が「ひとつ」になった瞬間だった。