みやざきピーマン物語(上)
2017年11月28日
技術と意識統一 日本一の産地へ団結
全国一の出荷量を誇る本県産の冬季ピーマン
本県を代表する作物に育つまでには、生産者だけでなく各JAやJA宮崎経済連(経済連)など、関係者一丸の取り組みがあった。
青くて大きな唐辛子
「青くて大きな唐辛子があるらしい」。1963(昭和38)年、東京、大阪市場をにぎわせていた緑色の野菜。それがピーマンだった。うわさを聞き付けた西都、宮崎市の農家は市場を視察し、既に栽培が始まっていた高知県で技術を学んだ。「生でも食べることができ、収量も多い。必ず宮崎でも成功する」―。期待を胸に翌年から西都市での栽培が始まった。
東京五輪が終わり、日本が活気に満ちていた時代。66年には野菜生産出荷安定法が制定され、農業近代化の追い風が吹き始めていた。西都市の9戸が始めた部会は、品種名から「さきがけ会」と名付けられた。
ピーマンは病気や害虫に強く栽培は比較的やさしく補助事業も充実していたことから、西都市の若手農家を中心にハウス栽培が一気に拡大した。隣接する宮崎市や新富、高鍋、木城町の農家にも波及し、68年には83戸まで激増した。
基準統一へ共計委
悩みもあった。栽培面積は大きな上昇カーブを描いたが、市場の評価が高まらない。70年の大阪市場の年間平均価格は、高知産が1㌔201円に対し、宮崎産は189円。出荷量が多い3~4月には価格差が26円にまで広がった。
元県・経済連職員の原口春盛さん
力を合わせて悲願達成
一つになった宮崎の力は強かった。県内すべての産地でピーマンの基準を統一。各農家には、市場価格から算出した価格が支払われ、収入の安定につながった。共計委は綿密な販売戦略を立て、市場への安定供給を図り宮崎産の知名度・信頼度は、ぐんぐん上がっていった。
栽培が拡大し78年、ついに宮崎県は生産量日本一の座を獲得。その後も高知との差を広げ、揺るぎない地位を築き上げていった。
県内各地で「ピーマン御殿」と呼ばれる家々が建ち、ピーマン農家は好景気に沸いた。そんな矢先、突然の危機が農家を襲う。オイルショックだ。冬季栽培の生命線ともいえる燃油の急激な高騰で一元出荷販売のメリットが薄れ始め、地域間で意見が対立。求心力だった共計委は79年、解散してしまう事態となった。
(次回につづく)