みやざききゅうり物語(上)
2018年1月29日
温暖な気候活かし、産地形成目指す
年間生産量、出荷額ともに日本一を誇るみやざききゅうり
「農業用ビニールが開発され、一気に近代化が進んだ」。県職員として野菜の試験研究に携わった高橋英生さん(84)は、新人だった60年前、ビニール栽培を担当した。「フレームは竹製。夜はビニールの上に筵を掛けて保温し、雨が降りそうなときは夜中でも剥ぐ。ぬれると重くて、なかなかの重労働だった」。
農業用ビニールが開発され、竹幌のハウスが県内でも作られはじめた=1961(昭和36)年、東諸県郡内、宮崎日日新聞社提供
戦前、本県早出し野菜の市場評価は高かった。県発行「宮崎の野菜史」によると、大正時代に日豊本線と港湾が整備され、1935(昭和10)年にはきゅうりの生産量は3千㌧を超え、生産者組合や指導機関による生産・販売体制は確立していた。九州と本州を結ぶ関門トンネルが開通し、さらなる販路拡大に期待が寄せられていたが、太平洋戦争が激化。混乱の中、県営青果物検査が撤廃されると、市場評価は低下し、生産・販売体制の見直しを迫られることとなった。
48年、県は園芸農家や指導員を早出しきゅうりの先進地・高知県へ派遣した。「県土が広く温暖な宮崎はもっと早く大量に生産できるはずだ」。産地化へ再挑戦が始動するも、たびたび台風や集中降雨の被害に直面、関係者を悩ませた。しかし、このことは防災営農を真剣に議論する機会へとつながった。台風被害を回避する県防災営農計画が策定され、この中できゅうりを含む野菜の生産拡大が進められ、60年代後半には大型の鉄骨ビニールハウスが次々と立ち並び、自動灌水、加温機が奨励された。JA宮崎経済連は共済制度で価格安定を支え、農家とJA、行政が一体となった集団産地化が進んでいった。
高橋英生さん
白イボ品種の時代に
70年、農家を悩ませていた立ち枯れ対策に、接ぎ木栽培の技術が普及し、低温期の収量も伸び、栽培は安定していった。そんな中、東京・大田市場では白いイボのきゅうりが高値を付け、話題をさらった。「軟らかくおいしいらしい」。評判を聞きつけた県営農指導専門技術員の原口春盛さん(78)らは74年、白イボ品種を取り寄せた。
綾、清武町のJAも同時に導入した。指導員らが「全責任を取るつもり」で導入した白イボ品種は翌年、大阪市場でも主流に。時代のニーズをいち早くとらえ、順調に生産量を増やしていくが、その後も一心に努力を続けることになる。