黒皮かぼちゃ編
2018年12月25日
国内初の空輸農産品 伝統守る奮闘続く
みやざきブランドにも認証される黒皮かぼちゃ
22日は冬至。「冬至にかぼちゃ料理を食べると風邪をひかない」と言われる。
大正時代から本格栽培
黒皮かぼちゃの出荷風景=1982(昭和57)年12月撮影、生目農協
「宮崎の野菜史」(同編集委員会)によると、本県では1907(明治40)年に宮崎市で大縮緬(ちりめん)種が栽培された。24(大正13)年には千葉県から黒皮かぼちゃ種を導入。系統選抜で「日向14号」を育成し、戦前の奨励品種とした。
27(昭和2)年、当時の加?清雄知事は延岡市出身の飛行家・後藤勇吉に黒皮かぼちゃの空輸を依頼。国内初となる生鮮野菜の空輸は大きな話題となった。
立体栽培を確立
JA宮崎中央管内の生目地区で生産が始まったのは昭和20年代から、とされる。同40年代には米の生産調整後の安定作物として栽培農家が増加。ビニールハウスでの栽培も始まった。技術も向上し、生産者、JA、関係者の創意工夫でビニールハウスに支柱を建てて1.5㍍ほどの高さまで、つるを誘引させる本県独自の「立体栽培」を確立。空間利用の効率化により定植本数が増え、1作の長期化で収穫できる回数が増えた。
栽培は昭和50年代まで盛んに行われ、70(昭和45)年には上小松地区が農林大臣表彰を受賞した。同地区で40年以上前から栽培に取り組む甲斐佳幸さん(76)は「昔は選果場から専用列車に積んで出荷していた」と当時を懐かしむ。
しかし、風向きが変わる。一般家庭で調理しやすい「西洋かぼちゃ」が台頭した。需要が減り価格が低迷したことに加え、重油などの生産コストの上昇が農家を圧迫。キュウリなどに転換する農家が相次ぎ、年々、生産戸数や生産量が減少した。かつて数百人の生産者がいた生目地区では今季、5人で87㌃、約50㌧の出荷を予定。産地の維持が今後の大きな目標だ。
未来へつなげる宮崎の伝統野菜
40年以上、黒皮かぼちゃ栽培を続ける甲斐さん
20㌃のハウスで栽培を続ける甲斐さん夫妻も「高齢化や担い手不足など試練も多いが、健康なうちは栽培を続け、伝統野菜を守っていきたい」と前を向く。
今では希少な存在となった「黒皮かぼちゃ」を後世へ―。強い決意を胸に関係者一丸となった奮闘は今日も続く。