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あの瞬間、歴史が生まれた

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みやざき牛乳物語(上)

2020年3月20日

霧島が九州初の集約酪農地域に



自給率100%を誇る牛乳。本県では現在、年間7.5万㌧の生乳が生産される

 宮崎の豊かな自然の恵みと生産者の愛情をたっぷり受けた牛から搾り出される牛乳。戦後を境に、本格的に酪農が営まれ、現在214戸が年間7・5万㌧の生乳を生産する。貯蔵が効かない牛乳は輸入に頼ることが難しく、自給率100%を誇る。

本県酪農の近代化の歩み

 本県酪農の始まりは1874(明治7)年。宮崎県畜産史によると、延岡藩士土田退蔵が宮崎市別府町で搾乳業を始めたとある。戦前の酪農は都市を中心とした企業や個人農家による「牛乳屋」で、病人や乳幼児哺乳の薬事的色彩が強かった。

 新たな歩みを始めたのは戦後。軍馬育成の平坦な国有地が多かった本県では、戦後、引揚者が霧島、尾鈴、茶臼原(西都市)の開拓地に入植し、酪農を始めた。1952(昭和27)年には大型家畜導入を対象にした中長期資金制度で乳牛導入が進んだ。

酪農振興に奔走 学校給食で消費拡大

酪農の急伸を伝える宮崎日日新聞の記事=1963年4月3日付

 54年、集約酪農の地域指定と生乳取引を柱とする「酪農振興法」が制定されると、西日本の有力な軍馬産地帯だった霧島地区(2市2郡)の指定化を求める運動が起きた。中心となったのは新潟県出身で陸軍参謀だった高橋照次さん=故人。鹿児島県の山中で終戦を迎えた。自叙伝「老牧夫回想録」によると、占領軍の命で兵器・弾薬の廃棄や残務整理に従事。その人柄と能力を買われ、自ら入植して牛飼いを始め、酪農の利を説いて回った。「本土決戦で死ぬ覚悟でこの霧島山麓に来たことを思へば馬産に替る酪農振興の犠牲になってもよいではないか。やれるだけやってみよう」。

 高橋さんらは指定化の柱となる集乳の一元化に向けて、既存の企業・専門農協との調整に奔走。高原町に中心工場を置くことで55年、阿蘇山麓と共に九州初となる集約酪農地域の指定が実現した。57年に霧島、64年に尾鈴に集約酪連が結成され、生産指導と一元集乳事業を軸に近代産業のスタートを切った。

 組織的な乳牛の増殖、導入が進むと、57年の県内牛乳生産は年間7000㌧と前年比148%と飛躍的に伸び、乳価の低迷を招く事態に。国は飲用牛乳の消費が落ちる冬季の調整対策として学校給食用に補助金を出した。牛乳は味が良く好評で、西諸北諸地域を中心に導入され、都市部、へき地へと普及。児童・生徒の体躯向上と需給調整に大きな役割を果たした。

酪農家を一つに 県酪連発足

牛乳や混合乳を飲んでいた1969年当時の学校給食。輸送かんに入った牛乳を学校で取り分けていた=宮崎日日新聞社提供

 日持ちしない牛乳は、売り手の酪農家の声が価格に反映されにくい。チーズやバターなどの加工用生乳は飲用に比べて安く取引される。その価格差を埋め、酪農家保護を目的とする通称「不足払い法」が65年6月に制定されると、酪農家が一つにまとまって価格交渉する指定生乳生産者団体(指定団体)の創設が急がれた。

 県内の酪農家3400戸すべてを参加させることが命題だった。県は酪農団体の責任者を集め、霧島、尾鈴集約酪連を解体して新組織をつくる説明会を開催。年末には県内一円の生乳受託団体として宮崎県酪農業協同組合連合会(県酪連)が発足、66年4月の施行前にすべての組織が県酪連に加入し、酪農家が安心して営農できる体制が整った。