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あの瞬間、歴史が生まれた

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みやざき牛乳物語(中)

2020年3月21日

品質の時代「安全・安心」を追求



農家の休みを確保する「酪農ヘルパー制度」は全国でも早い段階で取り入れられた

 宮崎県酪農業協同組合連合会(県酪連)が発足すると、乳質や乳牛の改良、県外への送乳が本格化した。安全・安心な牛乳を安定供給するため、県酪連は直営のクーラーステーションを設置。検査体制も整え、10年がかりで一元集荷多元販売を実現した。

 共同集乳所や個人牧場にバルククーラーが配置されると、乳質が飛躍的に改善、規模拡大が進んだ。JAや県酪連で長年、指導や販路拡大に当たった堀之内和利さん(75)=県乳業協会事務局長=は「暖地に酪農は育たないと言われていた中、児湯酪農連が全国乳質改善共励会で天皇賞を獲得し、励みになった」と振り返る。

「九州は一つ」新組織が誕生

 農家、関係者の努力が実り、1983(昭和58)年3月、念願の生乳生産10万㌧を達成。朝晩2回、毎日搾乳する酪農家の休みを確保しサポートする「酪農ヘルパー制度」が各農協に順次導入され、国と県、県酪連による定休型酪農ヘルパー事業が91年にスタートするまで農家を支えた。

毎年6月に開催される県産牛乳の消費拡大を図る「みやざきミルクフェア」

 一方、輸入拡大と大型スーパーの進出で、賞味期限の短い牛乳は過度な値引き商品の対象に。乳価を切り下げられ、経営を圧迫した。86、93年度末、相次いで大幅な生産調整も行われ、規定量を超えた生乳は流通制限を受けた。JA都城酪農部会(95戸)の平川良弘部会長(60)は「牛乳を捨てるだけでなく、生活のため、牛を処分する農家もいた」と話す。

 乳製品の輸入自由化が迫った90年、九州では国の動きと並行して、指定団体をブロック化し、県域を超えた生乳の共販体制を確立する組織づくりが始まった。効率的な生乳の輸送、価格交渉など生産者、乳業双方の体質強化に向けた協議が重ねられ、99年には九州生乳販売農業協同組合連合会(九州生乳販連)が設立。2001年、県酪連はJA宮崎経済連と合併統合して、足腰の強い組織を目指した。

多様化する飲料競争 本県に口蹄疫が襲う

牛を健康に飼うために牧草の自給に取り組むJA尾鈴酪農部会長の黒木俊勝さん

 会員541戸、2万1531頭で結束、組織強化を図ったが、茶やミネラルウオーターなど飲料の多様化で消費が分散し、牛乳の消費は伸び悩んだ。06年3月には再び減産計画が打ち出され、生乳の廃棄処分が行われた。「一日何百㌔を粛々と畑にまく。やりきれなかった」と県酪農協議会の石川幸保会長(65)。飲用乳価は下がり続け、ついにはミネラルウオーターより安い1㌔80円に。飼料代も高騰した。「酪農を衰退させてはいけない」と農家、関係団体は結集し、牛乳の普及と消費拡大を目指したキャンペーンを積極的に展開した。

 10年4月20日、悲劇が襲う。都農町で口蹄疫が確認された。国内でも有数の畜産密集地帯。感染が広まり、殺処分の決定が下された。JA尾鈴酪農部会(13戸)の黒木俊勝部会長(39)=川南町=は牛を失った翌々日から殺処分の一員として牛舎を回った。「殺さないで」と懇願する仲間に「自分も農家です」と説得。「ここで食い止めないと」の一心だった―。

 同年8月27日、農業者・関係団体・県民の努力と協力のもと、県は口蹄疫の終息を宣言。乳牛2500頭の命が犠牲となった。