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東日本大震災から1年(1)阿部泰浩さん(水産会社社長)

2012年3月6日
■もう被災者じゃない

 熟練の包丁さばきで次々にタラを三枚におろしていく社員たちを、社長の阿部泰浩さん(48)が頼もしそうに見つめていた。ここは、6工場すべてを東日本大震災の津波で失った阿部長商店(本社・気仙沼市)が1月30日に再建した同市の水産加工場。阿部さんは「一番つらい時期は過ぎた。いつまでも被災者ではいられない」と自信に満ちた表情で語った。

■「800人雇用守る」

 この工場のある気仙沼港周辺は昨年4月にも訪ねたが、当時は津波にえぐられ、鉄骨がむき出しになった水産加工施設がむなしく林立していた。その場所は今、がれきの撤去が進み、ぽつりぽつりと新しい工場が建ち始めている。しかし現状は、浸水した土地のかさ上げが思うように進まず、市内で営業を再開した水産加工施設は全体の2割ほど。阿部長商店も、今を迎えるまでは苦難の連続だった。

   ◇    ◇

 「全部燃えた。もうだめだ」。震災から3日後、出張先の中国・上海から絶望を抱えて気仙沼に帰郷した。しかし、高台に建つ二つの自社ホテルが被災を免れているのを見て、望みが残った。同業者が従業員の解雇に踏み切る中、「1人ではとても再建できない。駄目になるんなら、みんなで手をつないで…」と全従業員約800人の雇用を守ると決断した。

 迷いがなくなってからは従業員と共にもがき続けた。経営するホテルへの避難民受け入れやカツオの出荷作業、被災した工場の応急復旧など、やることは山ほどあった。

 それでも、電気のない生活が続いた震災直後の2カ月間には日没後、ゆっくりと考える時間だけはたくさんあった。「水産は気仙沼復興のために必要な産業。そのためには斜陽産業を成長産業へと変えなければならない」。阿部さんは次第に燃えてきた。

   ◇    ◇

 人口の7割が水産関連の仕事に従事していたとされる気仙沼市では、水産業の復活なしに町の復活はない。しかし、阿部さんにはやっていける自信がある。困難な状況を共に打開し信頼関係を強固にしてきた従業員たちの存在が大きいようだ。「以前は『俺が俺が』という仕事のやり方をしていたけど、今では部下を信じて仕事を任せるようになった。皆以前よりも一生懸命に働いてくれる」と恥ずかしそうに笑う。

 「三陸最大の水産会社」の若き社長は、震災後1年で一回り大きくなって気仙沼復活へ先頭を走る。

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 東日本大震災から間もなく1年。カツオ漁を通じて本県と縁の深い宮城県気仙沼市の人々が歩んだこれまでの道のりと将来の展望を尋ねる。

【写真】再開した加工場で社員の仕事ぶりを見守る社長の阿部さん(左)=宮城県気仙沼市

(1)阿部泰浩さん(水産会社社長)2012年3月6日付
(2)熊谷浩幸さん(気仙沼漁協 製氷冷凍部長)2012年3月7日付
(3)清水直喜さん(気仙沼寿司組合組合長)2012年3月8日付
(4)小松義一さん(廻船問屋部長)2012年3月9日付
(5)小野寺由美子さん(南三陸町中学校長)2012年3月10日付
(6)熊谷友孝さん(網元)2012年3月11日付
(7)畠山重篤さん(カキ養殖業)2012年3月12日付