家屋焼失「虚空の地」に 高原町郷土史に「享保の大炎上」
2011年3月7日
長期的な噴火が続く霧島連山・新燃岳(1421メートル)。過去にも噴火を繰り返しており、記録に残る中の最大規模は1716(享保元)~17(同2)年の「享保噴火」だ。当時の様子を記した文献は多く、「高原町郷土史・第23章第8節享保の大炎上」もその一つ。当時の惨状がうかがえる部分を、県立図書館郷土情報担当の籾木郁朗副主幹に現代語訳してもらった。(報道部・特報取材班)
1716(享保元)年2月18日、霧島三ツ山(霧島連山周辺の呼称)の辺りで(新燃岳が)噴火し、その音はとてもすさまじく、多くの雷が一度にとどろいたような音であった。黒い噴煙は1千丈(約3千メートル)ほども空に噴き出し、地面はただぶるぶる震え続け、音がどろどろととどろきわたって恐ろしい様子である。
噴煙には砂(火山灰)が混じり降っており、白昼なのにおぼろ月夜のようにかすんでいる。このままでは、どうなってしまうのかと皆恐怖心がなくならず、噴火も昼夜やむ時がない。この時火口は両側の池の方へ広がり、3月16日になり両側の池の土手がくずれ、噴火はますます激しくなっていった。
その後、時々大噴煙があるだけであったが、9月26日になり、にわかに大噴火があった。同日の未の刻(午後2時ごろ)の噴火の音は非常に大きく、噴き出すあふれるほどの溶岩が、あたかも火柱のように立ち上がり、黒煙が立ちこめる中に見えて、そのすさまじさは火の地獄を見ているようである。
この時は南の風で煙(火山灰)は東北へ流れたが、その日の戌の刻(午後8時ごろ)にまた噴火し、今度は火の粉を降らせ、火柱はなびき垂れて東御在所(現霧島東神社)の上にかかり、噴出するごとに焼けた礫(れき)=火山礫、石つぶて=が鉄砲玉のように飛んで落ちてくる。東御在所の上を飛んで地面に落下する礫は、大きさが車輪ほどもあり、しかも次々に落ちてくる。このようなありさまであるから、焼けた礫が落ちた人家や馬屋はみな火事になって、次々に焼けてしまった。
この時祓川の人家は次々に焼失し、神徳院(しんとくいん=現狭野神社内にあった寺社)、錫杖院(しゃくじょういん=現霧島東神社内にあった寺社)などもみな焼けてしまった。人々は驚き慌てて、家財道具をまとめる暇もなく、皆子どもや老人を助けて避難したが、福山地方(鹿児島県)の参詣者は神徳院参拝の時に噴火が起こり、逃げる間もなく無残なことに焼け死んだ者が11人に及んだ。当地の者も31人ほどケガをした。
さらに、捨てて逃げた馬屋が火災になり、馬は逃げる間もなく、いなないているばかりで焼け死んでしまった。焼けた礫が多く落下して、噴火はまだやまない。祓川は焼けてさらに花堂に火が移り、火炎を上げて燃えた。皆ただ遠巻きに自分の家が焼けるのを臨み見ているだけで、手の施しようがなく、悲惨なこと限りがない。人々は物を持たずに逃げたので食物、衣類がなかった。大人といえども泣きたくなるくらいであった。この時焼失した家屋は64軒。焼け死んだ牛馬は405頭にのぼった。
12月28日、またまた大噴火し、翌29日も噴火した。花堂の人家はこの時全滅してしまった。後川内、広原も少し火事の被害に遭った。
17年正月元旦、また噴火したので正月の祝儀もせず、人々は悲嘆するばかりであった。正月3日と4日に噴火したが、今度は午後10時ごろから午前2時ごろまで大噴火となり、高原はおろかさまざまな方角20余里(約80km)へ砂や石(火山灰、火山礫)が降り、高原の住民は皆小林、松山、飯野、野尻、庄内、山田、水流村を目指して避難した。
この噴火では、曽於郡国分(鹿児島県)の松永川に泥砂が流出し、石高7、8千石が荒れ果て、田畑もまた6万7千石の損害があった。当地の高原、高崎もまた7千石余の損害が出た。正月7日、またまた大きな噴火があり、8日の夜にまた噴火、9、10、11日まで小規模の噴火があって少しずつ収まっていった。
このような噴火によって砂礫が田畑に入り、深いところは5、6尺(150~180センチ)、浅くて2、3尺(60~90センチ)ほど堆積したため、耕作をするにも手の施しようがなく、人々の困難は例えようがなかった。そのため、最初の噴火から人々は縁故を求めて避難し、高原、高崎の地はほとんど人影のない虚空の地となってしまった。
現代の防災指標に
多くの犠牲を出した「享保噴火」は、現代の防災指標にもなっている。防災マップ、国内28の火山ごとに気象庁が策定(2007年)した噴火警戒レベルなどがそれに当たる。
霧島連山を囲む宮崎、鹿児島県の7市町でつくる環霧島会議が09年に作成した「霧島火山防災マップ」。データを提供した砂防・地すべり技術センター(東京都)によると、享保噴火の火砕流が一度に約1300万立方メートル発生したことを受け、同じ量が火口東の高原町側、南の霧島市側のみに流れると仮定。さらに渓谷に火山灰が積もって加速するとみている。このため、享保噴火時に火砕流が到達した火口から約3・5キロよりも被害予想範囲を広げ約6キロに設定したという。
噴火警戒レベルは、それぞれ過去の噴火規模などを基に最大5(避難)~1(平常)に分類。気象庁は、新燃岳のレベル5を「噴石や火砕流、溶岩流が住居地域に到達、切迫した」享保噴火の状況を基準とした。現在のレベル3(入山規制)は1959(昭和34)年時の噴火が目安の一つ。レベル4(避難準備)に相当する噴火は「有史以来見当たらない」(福岡管区気象台)という。
【写真】「享保噴火」の様子をしるした高原町郷土史
1716(享保元)年2月18日、霧島三ツ山(霧島連山周辺の呼称)の辺りで(新燃岳が)噴火し、その音はとてもすさまじく、多くの雷が一度にとどろいたような音であった。黒い噴煙は1千丈(約3千メートル)ほども空に噴き出し、地面はただぶるぶる震え続け、音がどろどろととどろきわたって恐ろしい様子である。
噴煙には砂(火山灰)が混じり降っており、白昼なのにおぼろ月夜のようにかすんでいる。このままでは、どうなってしまうのかと皆恐怖心がなくならず、噴火も昼夜やむ時がない。この時火口は両側の池の方へ広がり、3月16日になり両側の池の土手がくずれ、噴火はますます激しくなっていった。
その後、時々大噴煙があるだけであったが、9月26日になり、にわかに大噴火があった。同日の未の刻(午後2時ごろ)の噴火の音は非常に大きく、噴き出すあふれるほどの溶岩が、あたかも火柱のように立ち上がり、黒煙が立ちこめる中に見えて、そのすさまじさは火の地獄を見ているようである。
この時は南の風で煙(火山灰)は東北へ流れたが、その日の戌の刻(午後8時ごろ)にまた噴火し、今度は火の粉を降らせ、火柱はなびき垂れて東御在所(現霧島東神社)の上にかかり、噴出するごとに焼けた礫(れき)=火山礫、石つぶて=が鉄砲玉のように飛んで落ちてくる。東御在所の上を飛んで地面に落下する礫は、大きさが車輪ほどもあり、しかも次々に落ちてくる。このようなありさまであるから、焼けた礫が落ちた人家や馬屋はみな火事になって、次々に焼けてしまった。
この時祓川の人家は次々に焼失し、神徳院(しんとくいん=現狭野神社内にあった寺社)、錫杖院(しゃくじょういん=現霧島東神社内にあった寺社)などもみな焼けてしまった。人々は驚き慌てて、家財道具をまとめる暇もなく、皆子どもや老人を助けて避難したが、福山地方(鹿児島県)の参詣者は神徳院参拝の時に噴火が起こり、逃げる間もなく無残なことに焼け死んだ者が11人に及んだ。当地の者も31人ほどケガをした。
さらに、捨てて逃げた馬屋が火災になり、馬は逃げる間もなく、いなないているばかりで焼け死んでしまった。焼けた礫が多く落下して、噴火はまだやまない。祓川は焼けてさらに花堂に火が移り、火炎を上げて燃えた。皆ただ遠巻きに自分の家が焼けるのを臨み見ているだけで、手の施しようがなく、悲惨なこと限りがない。人々は物を持たずに逃げたので食物、衣類がなかった。大人といえども泣きたくなるくらいであった。この時焼失した家屋は64軒。焼け死んだ牛馬は405頭にのぼった。
12月28日、またまた大噴火し、翌29日も噴火した。花堂の人家はこの時全滅してしまった。後川内、広原も少し火事の被害に遭った。
17年正月元旦、また噴火したので正月の祝儀もせず、人々は悲嘆するばかりであった。正月3日と4日に噴火したが、今度は午後10時ごろから午前2時ごろまで大噴火となり、高原はおろかさまざまな方角20余里(約80km)へ砂や石(火山灰、火山礫)が降り、高原の住民は皆小林、松山、飯野、野尻、庄内、山田、水流村を目指して避難した。
この噴火では、曽於郡国分(鹿児島県)の松永川に泥砂が流出し、石高7、8千石が荒れ果て、田畑もまた6万7千石の損害があった。当地の高原、高崎もまた7千石余の損害が出た。正月7日、またまた大きな噴火があり、8日の夜にまた噴火、9、10、11日まで小規模の噴火があって少しずつ収まっていった。
このような噴火によって砂礫が田畑に入り、深いところは5、6尺(150~180センチ)、浅くて2、3尺(60~90センチ)ほど堆積したため、耕作をするにも手の施しようがなく、人々の困難は例えようがなかった。そのため、最初の噴火から人々は縁故を求めて避難し、高原、高崎の地はほとんど人影のない虚空の地となってしまった。
現代の防災指標に
多くの犠牲を出した「享保噴火」は、現代の防災指標にもなっている。防災マップ、国内28の火山ごとに気象庁が策定(2007年)した噴火警戒レベルなどがそれに当たる。
霧島連山を囲む宮崎、鹿児島県の7市町でつくる環霧島会議が09年に作成した「霧島火山防災マップ」。データを提供した砂防・地すべり技術センター(東京都)によると、享保噴火の火砕流が一度に約1300万立方メートル発生したことを受け、同じ量が火口東の高原町側、南の霧島市側のみに流れると仮定。さらに渓谷に火山灰が積もって加速するとみている。このため、享保噴火時に火砕流が到達した火口から約3・5キロよりも被害予想範囲を広げ約6キロに設定したという。
噴火警戒レベルは、それぞれ過去の噴火規模などを基に最大5(避難)~1(平常)に分類。気象庁は、新燃岳のレベル5を「噴石や火砕流、溶岩流が住居地域に到達、切迫した」享保噴火の状況を基準とした。現在のレベル3(入山規制)は1959(昭和34)年時の噴火が目安の一つ。レベル4(避難準備)に相当する噴火は「有史以来見当たらない」(福岡管区気象台)という。
【写真】「享保噴火」の様子をしるした高原町郷土史